■石の霊がたたずんでいるような石像寺磐座
石像寺の存在は、重森美玲・完途の『日本庭園
史大系』によって知った。大系の「上古・日本庭
園源流」の冒頭に磐座の写真が載っており、白い
巨岩が幾重にも寄り添い、屹立しているさまが印
象に残った。英語で「Iwakura Rocks」と書か
れていたことも新鮮な驚きだった。字名の「岩倉」も、
磐座の存在によるものとされるが、『延喜式』には
それに関する神社の記載は見当たらない。重森は、
高座神社がそれに該当するのではな
いかと推測しているが、『式内社調査報告』では、
久下と青垣に所在する高座神社を有力な論社とし
ており、確証はない。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■二羽の鶴が北向きに眠っていたという「鶴石」
伊和大神は、オオクニヌシ(大国主神)や三輪
大神の別名という説があるが、『記・紀』にはい
っさい登場しない。三輪山の神々にも、伊和大神
の名はなく、わが国の歴史のなかで『播磨国風土
記』にしかでてこない。広汎な信仰圏をもちなが
ら、ヤマト王権はその存在を語らず、いわば、中
央が黙殺した神といえよう。『播磨国風土記』宍禾郡の条に、
石作の里。本の名は伊和なり。土は下の中
なり。石作と名づくる所以は、石作首等 、此の村に居りき。
故、 庚午の年に石作の里と為せり。
とあり、石作の石は、伊和だと記されている。
伊和は「石(いわ) 」に通じるというのだ。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■葺石で覆われて再生を夢見た巨大な「石の山」
五色塚だけではなく、墳丘の斜面がびっしり
と葺石で覆われた古墳が数多く存在する。葺石と
は、墳丘などに河原石や礫石を敷きつめ、また貼
りつけるように葺いたものをいうが、前期古墳と
中期に多く、後期になると葺石を伴わないものが
大多数をしめ、やがて終末を迎える。
五色塚は前期末から中期初頭の前方後円墳だが、
なかでも墳丘規模の大きなものに葺石を伴うもの
が多い。わが国最大とされる「仁徳陵」や、それ
に次ぐ「応神陵」、最古の大型前方後円墳とされ
る「箸墓古墳」など、いずれも葺石で覆われてい
る。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■「天の御柱」だと伝えられる上立(かみたち)
神岩沼島へは、淡路島の南端に近い土生港から連絡
船がでている。わずか10分の船旅だが、オノゴ
ロ島への想いが大きいだけに期待がふくらむ。上
立神岩は、船着き場から20分ほど坂を上った先、
東海岸に屹立している。沼島の人たちは、これを
磐座と見たてて、二柱の神や竜神の祭りをしてき
たという。緑泥片岩といわれるとおり、緑がかっ
た尖頭形をした巨岩だ。「矛先」のような形とい
い、屹立する姿といい、古代から神と崇められ、
天の御柱とされてきたわけがわかるような気がす
る。まさに海に浮かぶ磐座そのものではないだろ
うか。
島の西南部、小高い山の上に「おのころ神社」
が鎮座する。その裏手には、沼矛をもつイザナキ
とイザナミの石像が立ち、正面には、最初に誕生
した淡路島が横たわっている。
(『磐座百選』より一部抜粋)